Angaur Studies

パラオのアンガウルについて皆んなで学ぶブログです。

パラオアンガウル州で日本語が公用語なワケ?それがフツーだから

パラオアンガウル州で日本語が公用語なワケ?それがフツーだから。

ネトウヨを一刀両断の学術研究をツイッター、Spaceで紹介しました。

https://twitter.com/i/spaces/1rmxPkOrLzyJN?s=20

 

まずはパラオの日本語借用語を研究され本も出した今村圭介さんの論文。

日本語が公用語として定められている世界唯一の憲法 ―パラオ共和国アンガウル州憲法

ダニエル・ロング 今村 圭介

http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/~long/longzemi/201503b.pdf

パラオにある16の州とパラオ憲法にある言語の記述を抽出し分析。さらに現地ヒアリングを行った内容。下記の本論文から引用した8点が重要。

  1. パラオ語に日本語起源の借用語が多いことはよく知られているが、とりわけ政治、 経済、行政などに関する多くのパラオ語は日本語起源のものである。つまり、これ らの分野において日本語は必要不可欠であった。

  2. 故 Carlos Hiroshi Salii 弁護士(元 EU 大使)によれば「投票権を行使するのに日本 語が必要であった」(山上博信の聞き取りによる情報)。図3は 1996 年 9 月 24 日の sengkio(選挙)の投票用紙で、kohosia(候補者)の氏名がアルファベットと片仮 名の両方で記されていることが分かる。

  3. 憲法が書かれた時の長老たちは、ほぼ全員日本語が流暢に話せた(ロング&今村 2013)。憲法の署名はカタカナ表記が多い。その例として図4のカヤンゲル州憲法 を参照されたい。

 4. アンガウル島では戦後育ちの人ですら日本語を少ししゃべれる人が複数いた(ロング&今村(近刊)。      Victorio Uherbelau は“Speaking Japanese was hutsu”(日本語をしゃべることは普通だった)と語った。

  1. アンガウル島は戦後にも日本との強い関係が保たれたため、日本語が使われること

    もあった。1940 年代なかばから 1950 年代なかばまでの約 10 年間、燐鉱石採掘の

    産業によって多数の日本人が島で暮らしていた。

  2. 1960~70 年代にも日本人来島者がいた。ほとんどはかつて(戦前・戦後)アンガ

    ウルで暮らした経験のある人々であった。

  3. 戦前にサイパンの人々がアンガウル島で生活していた(図5の地図には「サイパン

    村」が明記されている)。戦後にチュークの人々が労働者としてアンガウルに滞在 していた。そのため、戦前・戦後ともに日本語は日本人と話す時に使うものだけで はなく、非母語話者同士の共通言語という重要な役割を果たしていたのである。

  4. 上記の1,2,3はパラオ全土と共通していた事情であるが、4,5,6,7はパ ラオ全体ではなく、アンガウル州だけの特殊な事情であった。

そして結論として日本語を公用語とすることが当たり前であった、すなわち巷のネトウヨが勘違いしているような「親日」だからというわけではないことを明確にしている。(当方の認識の範囲では親日でない、というわけでもなさそうである。)

以下本論から引用。

 

…直接憲法制定会議に出席していた人を含め、 多数の関係者から話しが聞けたにも関わらず、日本語を公用語にしたという明確な理由 が得られなかった。「いや、なんとなく公用語に日本語を含めた」という消極的な証言し かなかった。最初は、これで調査が失敗したと考えていたが、聞き取りを進めているうちに、「特別な理由もなかったほどアンガウル島民にとって日本語が身近な存在だった」 ということが明らかになってきた。言い換えれば、憲法制定当時のアンガウル島の環境 では、アメリカ統治下での英語使用と同様に日本語使用が自然であり、公用語への選定 に特別な理由がないこと自体が大きな理由となっているのである。

 

次に紹介したのは山上博信氏の二つの発表メモのような文書である。

タイトル:パラオ共和国アンガウル州憲法で「日本語」が公用語の一つとされた事情http://iminseisaku.org/top/conference/121208_yamagami.pdf

タイトル:パラオ共和国アンガウル州憲法で「日本語」が公用語の一つとされた事情(2)

http://iminseisaku.org/top/conference/130512_yamagami.pdf

今村氏の論文と重なる部分が多いが、問題意識はまともな学術調査もされていない同案件をインターネットなどでいい加減な情報が拡散し、さらにパラオ内でも同様な議論がされていることを指摘している。

興味深いのが戦後、日本人によるリン鉱石の採掘と警察隊が派遣されたことである。そして米国管理にあった小笠原との交流もアンガウルの特徴的歴史の一つであろう。以下論文から引用。

1・アンガウル島について

アンガウル島には燐鉱石が豊富にあったことから,第一次大戦前ドイツにより採掘が開 始された。わが国の南洋委任統治により,同島が玉砕するまでの間,日本人のみならず, 共通語を日本語とする南洋群島各地から労働者が多数集まり大規模な採掘事業が行われた。

敗戦後,南洋群島の邦人移民は全員引き揚げたが,連合国軍総司令部(以下,「SCAP」と言う。)により,燐鉱開発株式会社(英文略称「PMC;Phosphate Mining Company,パラ オでは「リンゴー」)が設立され,日本人により 1956 年まで採掘された。SCAPは,警 察予備隊が設立される前の日本警察隊に対しても派遣警備を命じている。

アンガウル島民は,戦後も永らく日本人(特に「返還前の小笠原島人」)と交流したと言 える。

 

米国の占領政策は日本に対する政策を含め、興味深い。日本の重要な海洋パワーである海上保安庁水産庁は1948年の占領下、米国が創設したものなのだが、米国人はほとんど知らない。無責任な国家である。